治安の悪化に備えよう!護身に強い空手の流派

空手歴16年、40歳過ぎから空道を始め、もうすぐ黒帯の筆者が記事を書きます

最近治安が悪くなってるなと感じることってありませんか?

しかも、無差別の通り魔的犯行がかなり増えていると感じている方も多いかもしれません。

とっさに襲われた場合には逃げることもままならないことがありますし、中途半端な護身術では、刃物などの凶器に対応できません。

そんな世相に対処するために空手を習おうと考えている女性や、子供に習わせようと考えている親御さんも多いと思います。

実は私も空手を修行している身なのですが、実際に修行してみて思うのは競技空手と護身のための空手とでは若干の隔たりがあるということです。

そこを踏まえると護身のためには、どの流派が最適なのかが浮かび上がってきます。

流派選びで後悔しないためのポイントと、具体的な選び方について段階を踏んでお話ししていきます。

読んで頂けると、ご自分の場合にはどの流派の空手が良いか、具体的なイメージが出来上がると思います。

目次

フルコンタクト空手は実戦的?

かつては実戦空手=フルコンタクト空手という印象がありました。

その昔、フルコンタクト空手は「直接打撃制空手」と呼ばれ、その頂点には極真空手がありました。

それまで、空手といえば攻撃を寸前で止める「寸止め」の空手が主流でした。

ひと昔前の寸止め空手の稽古は基本や型のみで、ボクシングでいうところのスパーリングにあたる「組手」をほとんどやらないという道場も結構あったのです。

でもスパーリングをあまりやらないボクシングって、格闘術としてはあまり役に立たないですよね。

それと同様に、空手習ってるけど、喧嘩に対応できなかったとかいう話をよく聞いたものです。

そんな中登場した「極真空手」は衝撃的でした。

直接当て合う組手をガンガン行うスタイルの空手があまりにも斬新だったからです。

でも、この極真空手は「顔面攻撃禁止」というルール上の縛りがあるのです。

実は、ごく初期の極真空手は「顔面強打禁止」だったのです。

つまり、顔を軽く打つだけなら反則ではないというルールだったわけです。

このような事情ゆえに初期の大会の映像を見ていると、選手は皆きちんと顔面攻撃に対応できる構えを取っています。

それゆえ極真空手は「地上最強の空手」とか「ケンカ空手」などと呼ばれ、実戦空手の代名詞とも言われるようになったのです。

現在のフルコンタクト空手は、ほとんどが(拳による)顔面攻撃禁止ルールのため顔面の防御が甘く、武道空手というよりは競技空手になってしまっているという側面があります。

こうなると、果たして実戦的といえるのかという疑問が生じます。

ただ、フルコンタクト空手の中には大道塾や無門会のようにスーパーセーフという防具を被ることによって、顔面攻撃もOKというルールを採用している流派もあります。

特に大道塾は突き・蹴りに加えて、肘打ち・掴み・投げ・寝技・頭突きまで認めていて、さながら総合格闘技のような技術体系になっています。

また、大道塾から分派した流派である禅道会は、大道塾よりも「寝技」に力を入れています。

また、防具はヘッドギアを被り、オープンフィンガーグローブを装着するという試合形式もあり、この、より実践的なルールが海外でも人気を呼び、現在世界で最も海外に普及している流派と言ってよいでしょう。

ここまでくれば実戦的と呼んで差し支えないと思います。

ただ、刃物等への対処法や後ろから組み付かれた場合の対処法となると、若干不安が残ります。

実戦空手と言えども万全だというわけではなさそうです。

伝統派空手は実戦的でない?

今度は、かつて「寸止め空手」とも言われ実戦的でないとされてきた「伝統派空手」について述べたいと思います。

結論から言うと、伝統派空手だから実戦的ではないということは全くないのです。

この場合に重要なのは、その道場の稽古体系です。

伝統派空手において重要なのは型稽古ですが、それは、型には突き・蹴り等打撃系の動作のみならず、投げや後ろから組み付かれた場合の動作も含まれているものもあるからです。

もちろん、基本的な動作を抜粋して稽古する「基本稽古」、基本を組み合わせて行う「移動稽古」も重要です。

ここから、そのまま組手に入る道場もありますが、その前に相手と動作を確認しあう「約束組手」を行うという丁寧な指導を行う道場もあります。

しかし、総合的な護身を身につけるためには「型の分解」まで行うことが必要でしょう。

型の一連の動きの一つ一つにはきちんとした意味があるのですが、型の稽古のみで、その意味を把握することは不可能に近いと思います。

型の動作の意味を確認するために、対人で行う稽古が「型の分解」なのです。

この稽古をきちんと行っている道場はそれほど多くはありませんが、沖縄(琉球)空手の道場では比較的きちんと行われているようです。

空手はそもそも沖縄発祥のものですから、名前に沖縄(琉球)とつけるのはおかしいように思えます。

しかし、松濤館や糸東流など国内に広く普及し、近代空手として普及した流派と区別するために、上地流など、古来からの稽古体系を守っている流派を特に沖縄(琉球)空手と呼ぶことがあります。

最後に、組手は実際の攻防の中で技が使えるかどうかを確認できるだけに重要です。

ここまでの稽古をしっかり行えば、突き・蹴り・立ち関節・投げまでは対応できるようになるはずです。

しかし、刃物などの武器への対処法やトンファー、ヌンチャク、棒術などの武器術となるとさらなる対策が必要となるのです。

武器に対応するには

一般の方が、鉄砲などの飛び道具を持った暴漢と対峙する可能性は極めて低いと思います。

ただ、どのご家庭にもカッターナイフや包丁が少なくとも1本はあるということを考えると、刃物をもった暴漢に遭遇する可能性は考えなければならないでしょう。

しかし、刃物をもった相手と素手で戦うのは容易ではありません。

護身術教室などでナイフへの対処法を教えている場合もありますが、生半可な技術では実戦で対応できません。

まず、刃物を持った人間と対峙すると、はじめは間違いなく恐怖で体が硬直します。

普段練習している動きがスムーズにできなくなるのです。

実際、かなり昔の話になりますが、私もカッターナイフで斬り付けられるという経験をしたことがあります。

はっきり言ってかなりビビりました。

幸い、カッターナイフは回転運動、つまり斬りつける動作がメインなので、何回か腕や手を切られましたが、致命傷には至りません。

相手が大振りに斬りつけてきたところをとっさに左上段受けで受け、右正拳を顔面にぶち込んで、相手がひるんだところを投げて逃げました。

これが、カッターナイフでなく出刃包丁のように突き刺すこともできる刃物だったら…と考えると、今でも背筋が寒くなります。

以上のことを考えると、素手にこだわるのではなく、こちらもなにがしかの武器を使えた方が良いことは明らかです。

この場合に、身につけておいて損はないのが棒術でしょう。

棒術には刃物を「受ける」「叩き落す」という動作も含まれているので、刃物を持った相手の戦意を喪失させることが十分可能なのです。

棒術用の棒を持ち歩くというのは現実的ではありませんが、身の回りに箒やモップなどがあれば代用できます。

また、アマゾン等の通販サイトでは伸縮するタイプの特殊警棒も販売されていますので、それを携帯するという方法もあります。

護身を考えるとどの流派が良いのか

これまでお読みいただくと、あくまで「護身」を考えた場合には次の条件を満たす流派が合っているということがわかります。

条件1:型稽古や型の分解をないがしろにしていない
条件2:組手稽古をきっちり行っている
条件3:武器術も教えている

この条件に合致する流派として真っ先に来るのは沖縄(琉球)空手だと思います。

その中でも上地流空手は空手のみならず、棒術などの沖縄(琉球)古武道も合わせて稽古している道場も多いというのが特徴です。

比較的古くからの稽古体系を守っているため、組手稽古もしっかり行っている場合が多いようです。

沖縄小林流空手も上に挙げた3つの条件をクリアする流派であると思います。

まとめ

「護身」という点から考えると、実戦的であると言われているフルコンタクト空手も万能でない部分があるということがお分かりいただけたかと思います。

伝統派、フルコンタクトどちらが良いかという観点ではなく、自分が想定する路上の有事に最も対応できるのは、どの流派なのかという観点から流派をお選び頂けるとよい選択ができます。

また、沖縄(琉球)空手の道場は護身に合った稽古を行っていることが多いと書きましたが、他の伝統空手やフルコンタクト空手の道場でも、護身を意識した稽古を行っている場合があるということは重要です。

型の重要性を十分に理解し、護身に必要な技術を場面ごとに研究し、指導する指導者がいるならば、流派にこだわることなくその道場を選ばれることをおすすめします。

もう一点だけアドバイスさせていただくと、女性やお子さんが護身として空手を習う場合には、相手を制圧することを目標にするというよりは、相手をひるませて逃げることを目標とすることをおすすめします。

空手を習っているからといって、女性や子供が大の男を制圧するのは容易ではないからです。

生き延びるために空手を習うというスタンスで良いと思います。

このように、自分あるいは自分のお子さんに合った流派選びは、やはり実際に道場を見学してみないと難しい部分もあるように思います。

まずは、自分が現在気になっている空手道場を見学してみるということが第一歩です。