歴史学的空手論―空手はどこからやってきた?

空手歴16年、40歳過ぎから空道を始め、もうすぐ黒帯の筆者が記事を書きます

知ってるつもりでも、いざ聞かれると回答に困ってしまうことってありませんか?

日本人だから日本文化について多少のことは知っていると思っていても、観光にやって来た外国人に「なぜ武士に切腹という風習が生まれたのか?」などと聞かれるとかなり困ると思います。

ここまで専門的でなくとも、「なぜ豆腐には木綿豆腐と絹ごし豆腐があるのか」という日常的な質問に対しても、はっきり答えられる人は少ないでしょう。

残念ながら、私もはっきりとは答えられません。

このページを読み終わると、少なくとも「空手の由来を教えて下さい」という外国人観光客の質問にまごつくことはなくなります。

空手がいつ頃成立し、どのような人たちの活躍によって発展していったかを順を追って解説していきたいと思います。

元は「空手」という名ではなかった

空手の基になる武術は、「手(ティ-)」と呼ばれていました。

「手」の起源には諸説ありますが、一説によると「舞方(メーカタ)」という武術踊りがその起源だそうです。

そこから沖縄独自の武術「手」が発展し、そこに中国武術である「唐手(トーディー)」が融合して「唐手(からて)」となるのは明治時代後期の学校教育に採用された時期であると言われます。

現在の「空手」という呼称が広く使われるようになるのは、1929年に慶應義塾大学唐手研究会が改名を宣言してからのことです。

以降「空手」という呼称は急速に普及することになります。

「手」にまつわる人々

「手」時代の武術家についての最古の記述とされるものが正史『球陽』に見られます。

『球陽』によれば、16世紀に京阿波根実基(きょうあはごん じっき)という武術家が実在し、「手」の使い手であったということです。

時代が少々下って18世紀になると具志川親方や、真壁朝顕などの武術家の名が見られるようになります。

特に具志川親方は、日本傳流兵法本部拳法(にほんでんりゅうへいほうもとぶけんぽう)の創始者である本部朝基(1870年-1944年)が、尚敬王時代における「琉球随一の武人」と述べていることからもその実力の程が窺い知れます。

「唐手(トゥーディー)」の登場

松濤館流の開祖として知られる船越義珍(ふなこし ぎちん)の著書には、明治初期の唐手(からて)の古老たちが中国武術の技法を唐手(トーディー)、沖縄古来の武術を沖縄手(ウチナーディー)と呼んで区別していたことが記されています。

ということは、かつては唐手・沖縄手という2つの武術が存在していたものが、次第に融合して唐手(トゥーディー)となり、明治時代には唐手(からて)と呼ばれるようになったということになります。

では、中国武術の技法である「唐手」が沖縄に広まったのはいつ頃なのでしょうか?

首里手の大家である安里安恒は「唐手と云ふ名が判然世の中に知り亘(わた)るやうになったのは、赤田の唐手佐久川からである」と述べています。

この佐久川とは19世紀琉球王国時代の武術家である佐久川寛賀(さくがわ かんが)のことです。

佐久川は20代で中国へ渡り北京で中国武術を修行したとされ、帰国後に沖縄古来の「手(ティー)」に中国武術の技法を合わせて独自の武術を編み出したと考えられています。

これが唐手(トゥーディー)の原型だと言われているのです。

唐手(からて)の誕生

明治維新以降は、糸洲安恒の活動によって明治34年から学校教育に取り入れらるようになります。

その際に、唐手の読み方も「トゥーディー」から「からて」に改められたのです。

唐手(からて)が本土で本格的に指導されるようになるのは船越義珍や本部朝基などが本土に渡った大正時代以降と言われています。

1922年5月船越は第一回体育展覧会で、唐手の型や組手を紹介するパネル展示を行いました。

この展示は反響を呼び、嘉納治五郎に招待されて講道館で唐手の演武と解説を行うことになるのです。

この演武には講道館の有段者200名が参加したと言いますから、その関心の大きさがうかがえます。

この後、船越は東京に残り唐手の指導にあたることとなります。

同じく1922年11月には、本部朝基が出かけ先の京都でボクシング対柔道の興業試合をたまたま目撃し、これに飛び入り参加するという出来事が起こります。

本部は相手のロシア人ボクサーを唐手の技で一撃のもとに倒してしまいます。

このとき本部は52歳だったと言いますから驚きの強さです。

武勇伝が国民的雑誌『キング』等で取り上げられたこともあり、空手の知名度は一気に高まりました。

船越、本部の活躍もあり、大正末期から昭和にかけて大学で唐手研究会の創設ラッシュが起こることになるのです。

「唐手」が「空手」に

空手という呼称が普及するきっかけとなったのは1929年慶應義塾大学唐手研究会が唐手を空手に改めると宣言したことだと前に書きました。

この変更の一因に「唐手」が中国拳法と誤解されることがよくあったことがあげられます。

そして、日本武道としての体系に組み込まれる過程で、「空手道」という呼び名が一般的になっていきます。

この「空手道」は柔道の存在もあってか、取手(トゥイティー)などの柔術的技法が取り除かれ、打撃に特化した武道として再構成されたものとなっています。

沖縄からはあまり伝承されなかった組手の技術も新たに開発され、現在の「空手道」となっていったのでした。

沖縄においても1930年代になると「空手道」という呼称が一斉に使われるようになっていきますが、この背景には当時の軍国主義的な風潮が反映されているとも言われています。

というのは「唐手」の唐が中国を想起させるということで、変えた方が良いのではというある種の「配慮」がなされたという説があるのです。

戦後の「空手道」

第二次大戦後は空手道の競技化が組織的なレベルで進められました。

競技化自体は戦前から様々に試されていましたが、船越義珍が競技化に否定的だったこともあり、その活動は限定的なものでした。

戦後は特に防具を付けての試合が先駆けて行われ、続いて寸止めルールによる試合が行われるようになります。

ところが防具の安全性が今一つであったということもあり、次第に寸止めルールが主流となっていったようです。

1964年には四大流派をまとめる組織として、全日本空手道連盟(全空連)が結成され、寸止めルールがさらに日本に広く浸透するきっかけとなります。

1969年大山倍達が創始した極真空手の第1回オープントーナメント全日本空手道選手権大会が開催されました。

極真空手は直接打撃制のルールを採用した画期的かつ実戦的な空手として脚光を浴びるようになり、フルコンタクト空手という新しい流派を切り拓いたという点でその後の空手界に大きな影響を及ぼしたと言えます。

現在では、極真空手から分かれて成立した流派が多数存在し、フルコンタクト空手も多様化の時代に突入したことが見て取れます。

一方で、総合格闘技の人気もあってか、総合的な武術であった沖縄の「手(ティー)」の技術体系を見直そうという動きも見られるようになってきています。

まとめ

空手の歴史についてお話してきましたが、概略は理解していただけたでしょうか。

元は沖縄で発祥・発展した総合武術である「唐手」が本土に渡り、打撃中心の武道として再編されました。

戦後は競技化が進んだことにより、ルールの吟味が行われるようになり、寸止めルールの欠点を補完するためにフルコンタクト空手が生まれたという側面もあります。

そして現在の「手」を再考する動きはフルコンタクト空手の欠点を補完するという意味合いもあるように思いますが、空手本来の姿に戻りつつあるという意味合いもあるのかもしれません。

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